ミューズは願いを叶えない


10月21日 朝
某マンション正面玄関

 くぁと欠伸をしながら、王泥喜は腕を天に伸ばした。
そして、固く張った肩を揉み、首を回せばコキコキと嫌な音がする。
「これから、おデコくんはどうするの?」
 その横で、響也は欠伸を掌で隠していた。噛み殺しきれない音が、未だ明けたばかりの静かな街に響く。
「まず、シャワーを浴びて、事務所に出社してから寝ます。」
 (寝ちゃうんだ?)そう告げて、響也は楽しげにケラケラと笑う。
「そういう検事はどうするんですか?」
「午前中は、溜まった有休でも使ってみようかな。手足を伸ばして休みたいからね。」
 そして、またふわと欠伸をする。例え手足の長さは違っていても、同じように狭いベランダに縮こまっていた王泥喜は、響也の主張に同意する。
「まぁ、一昨日と違って、昨日の夜は温かかったから過ごし易かったけどね。」
「でも、音は全くしませんでしたから、今夜も…ですよ。」
 ううと唸る王泥喜に、やはり楽しげに響也は笑った。何がそんなに楽しいのかと不審な表情になった。多忙を極めているはずの男が、毎晩見張りなどして嬉しいのだろうか?
「今夜もおデコくんと一緒か、楽しみだな。」
「前から聞こうと思ってたんですが、俺なんかといて楽しいですか?」
 趣味も会わない(特に音楽)、生活基盤も違う。容姿に至っては、眼がふたつで鼻が…という類にしか共通点もない。唯一の接点が法曹界という男といて、何が楽しいと言うつもりだ。
「酷いなぁ。僕は、おデコくんが好きだから楽しいに決まってるじゃないか。」
(君も僕の事好きだろ?)と含んだ返答に王泥喜は絶句した。なんだ、その自信。そりゃ、ミリオンバンドのボーカル兼リーダーで、天才と呼ばれる首席検事かもしれないけど…思っただけで、むかついたぞ。

 じゃあ、また今夜ねと告げる男の袖口を王泥喜はひっつかむ。
「アンタからかって…「もっと自信を持ちなよ、おデコくん。」」
 王泥喜に掴まれた袖口を払おうとはせず、響也は軽く膝を曲げて王泥喜の顔を覗き込んだ。悲しげに寄せられた眉に、王泥喜の心臓は大きく波打つ。
 兄と違って目尻が下がっているせいなのか、こういう表情になった響也は今にも泣きそうに見えてしまう。罪悪感が胸に迫るから、そんなの反則だと王泥喜は思う。
「君といると楽しいよ。面白いし、皮肉めいた事を言うけど芯は真っ直ぐで頼もしい。僕は好きだよ。
 どうしたら信じてくれるの?」
 尋問でもしてみるかい?と問われて、ハッと息を吐いた。
 有り得ない褒め言葉を並べ立てられて、内心穏やかではいられない。不審な気持ちと奇妙な高揚感と。自分がこんなに煽てに弱いなんて、初めて自覚した。

「意味ないでしょ、そんなの。」
「じゃあ、信じて。」 
 
 お強請りの様相に、王泥喜の心情はそのまま前髪に表れる。へにゃりと下へ垂れ下がったそれを、響也は恭しく掌で受け止めた。
「検事…?」
「好きだよ。」
 にこ。と笑い、前髪に唇を寄せた。

…これは呪いの儀式だろうか。王泥喜は背筋に嫌な汗が流れていくのを感じつつ、全身から力が抜けていくのを自覚した。



10月21日 昼
成歩堂なんでも事務所内

 突っ伏していた机から顔を上げると、開けっぴろげの所長室で成歩堂さんが電話をしているのが見えた。そんなに距離がある訳じゃないけど、会話の内容はよく聞こえない。
 王泥喜は大きな欠伸をして、そして膜を張っていたような耳がやっと音を拾った。
「へえ、そりゃ偶然だね。」
 そんな言葉を口にして、成歩堂はけらけらと笑う。あ〜なんか面白い話をしてるらしいなぁと思うけれど、身体の大半を占めている眠気と疲労で少しも頭が回らない。
 なのに、今夜も見張りだ。思った途端、別れた時の牙琉響也を思い出した。

「わけわかんねぇ、ジャラジャラ、不愉快だっ!」

 叫んで、もう一度机に突っ伏してみる。頬が熱いなんて、何かの間違いに違いない。自分の気持ちがよくわからないとか、有り得ないだろう。

「そんな事ないですよ? 王泥喜さんすっごい楽しそうでした。」
 ぎょっとして顔を向けると、みぬきちゃんが不服そうに頬を膨らませた。
「ふたりですっごい楽しそうに話しをしてて、みぬき眠っちゃたじゃないですか。」
 気付いたら、パパと一緒に寝てて牙琉検事とじゃなくて、それなりにショックでした! みぬきはそう言い放つと、不思議そうに首を傾げた。
「王泥喜さん、自分ではわからないんですか?」
「…牙琉検事が一方的に話してたような気がするんだけど。」
 俺の記憶ではねと付け加えると、彼女はブルブルと首を横に振った。
「違いますよ、王泥喜さんは興味がないと、話を聞きもしないのに、ちゃんと相槌を打ったり、会話してました。そういう反応を返す時は、王泥喜さんは好きだったり、興味があったりするんですよ?」


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